個性という言葉のむずかしさ、そして個性を尊重することの意味

唐突ですが「個性」って何でしょうか。

「個」とはひとつのもの。そうすると「個性」とはその人が持つ特有の性質というような意味で捉えて良いのでしょうかね??

「個性的!」という言葉を聞くと、どうしても

  • 人より目立つようなことをする人
  • 独創的な髪型や服装をする人
  • 自分と他人との違いをアピールする人

というような意味合いにとれてしまう。ユニークだったり、奇抜だったり、独特な表現だったり。でもこれは、自分の表現方法であり、好みであり、時と場合によっては変えることが出来るもの。そして本来の「個性」とはきっと違うもの。

「個性」は、ある意味、飾ったり演じたりすることのない、その人が持ち合わせているものの根底にある静かな部分なのではないでしょうか。

また「個性」は、別に周りと違わなければならない理由もない。

「個性」といいつつも、同じような「個性」がたくさんあるかもしれない。「個性」とは、その人(個)が持つ特有の性質ではあるけれど、決して独創的なものではない。他人と重複するもの。

なんて、ややこしい(笑)

育児、教育の現場で「個性を大切に」とか「個性を尊重する」とか、良く耳にします。私も息子の気質を見ている中で、この「個性を大切にはぐくむ」というスタンスはとてもありがたいし、私自身が誰よりも一番に実践していかなくては、と思っているのです。

しかしこの「個性を尊重」云々を履き違えて解釈されることも少なからずあるもよう。

自分の意見を主張して無理やり押し通したり、好き勝手自由気ままに過ごすことを容認すること、これは「個性を尊重する」に当てはまるわけではありません。これは単なる「ワガママ」であり「モノグサ」です(笑)

個々の性質を認めて受け入れて、他と比べずに、個々が持つその芽をより良い方向へ伸ばしていくようサポートしていくことが「個性を尊重してはぐくむ」本来の意味なのではないかな。

そしてそれは親からすると「とてつもなく至難の業」であります(笑)

例えば「宿題をやる」という場面。

親:どうせやらなきゃいけないんだから、さっさと取り組んでパッと終わらせてほしい。ちょっとの時間なんだからさ、姿勢よく集中してやってくださいよ、本当に。

色々思うわけです。

でも、

子:めんどくさいな、宿題って本当に嫌い。

という子に対して

親:そっか、宿題嫌いもこの子の個性だもんな。

となりますか?

もちろん

親:イヤならやらなくてもいい、やるべき課題をやらないことについて問われたときに、自分できちんと説明できるなら、このままやらずに学校へ行っていいよ。

と答えたことはあります。それは個性云々ではなく「宿題は学校との最低限の約束であり、取り組む努力はするべきだ」というものが前提になっています。

ただし、宿題をするにあたり「集中してパッと」「一問ずつ順番に」「メリハリつけて」「椅子にきちんと座る」など、こういったものは押し付けるものではないのですよね。

「じっくりのんびり集中したい」「何かと並行してやりたい」「全体を把握しながらランダムにやりたい」「自由なスタイルでやりたい」

それこそ個々に違うものだと思います。

「こんなんじゃ学校で通用しない」「効率悪い」「こんなやり方だらしない」「周りの子はもっと…」とか色々思う所はあるにしても「宿題を終わらせる」という同じゴールに向けて進んでいるのです。

子供全員が同じような方法で宿題をこなすということのほうが何だか不自然。

前に進んでいく過程でこそ、その子の個性を尊重してサポートする場面なのではないかな?と思うのです。

効率が良い悪いなんて、親が押し付けることではなく、子供自身が実践して体感し覚えていくもの。一日の流れがどんなに効率悪くて、宿題するのに眠くて進まない、寝る前に部屋が片付いていない、予定通りに進まない、そんな日々も、親はイライラしないで子供のやり方をまずは受け入れてみる。

もし子供がうまく出来ないことを悩むようなら多角的にサポートをする。そしてまた子供に主導権を委ねて、子供なりの方法を見つけながら共に進んでいく。

なんてね、あー、こんなの理想論。絶対に無理な気がする…(笑)

でも、息子の個性を尊重して、その芽を潰すことなくこの先も開花していってほしい気持ちは日々強くなっています。そのためには、親が勝手に作り上げている効率化の時間割を破棄してみよう。

そして、息子の歩く一歩一歩を「信じる」ことから再スタートを切ろう。「信じる」ってとても大切で温かいものですよね、忘れないでいたい。

今回は、何かと「個性を尊重」という言葉に流されそうな日々の中、本質を忘れないための忘備録のような記事でした。明日はもっと良い日になりますように!

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